2026年5月30日 | 映画・エンタメ
受賞スピーチで、彼女はこう言った。
「私のような平凡な日本人俳優がここに立っていられるのは、素晴らしい監督のおかげであって、”夢のまた夢”のようです」
カンヌの壇上で、岡本多緒(41)はそう言った。
でも——「平凡」は絶対に違う。
まず、何が起きたのか
5月23日(現地時間)、第79回カンヌ国際映画祭の授賞式。濱口竜介監督の新作『急に具合が悪くなる』で、岡本多緒がフランス人女優ヴィルジニー・エフィラとともに最優秀女優賞を受賞した。
日本人俳優のカンヌ女優賞受賞は、史上初めてのことだ。
過去には柳楽優弥(2004年)、役所広司(2023年)が男優賞を受賞しているが、女優賞は誰も手にしていなかった。79年という長い映画祭の歴史に、岡本多緒という名前が刻まれた。
「TAO」を知っているか
岡本多緒という名前より、「TAO」という名前に聞き覚えがある人の方が多いかもしれない。
1985年、千葉県生まれ。14歳でモデルデビューし、その後「TAO」の名前でパリ、ニューヨークと拠点を移しながら国際的なキャリアを築いていった。ラルフ ローレン、シャネル、ランバン……世界のトップブランドに起用され続けた彼女のキャリアは、通常のモデルの賞味期限(5〜10年とも言われる)をはるかに超えた20年以上に及ぶ。
俳優としての転機は2013年。ヒュー・ジャックマン主演のハリウッド映画『ウルヴァリン:SAMURAI』でヒロインに抜擢されたことで、映画の世界への扉が開いた。その後も『沈黙の艦隊』(2023年)など、日本国内外の映画・ドラマに着実に出演を重ねてきた。
映画『急に具合が悪くなる』とはどんな作品か
原作は、がんを患った哲学者・宮野真生子(享年42)と医療人類学者・磯野真穂による往復書簡集『急に具合が悪くなる』(晶文社)。生きること、病と向き合う時間を、対話の中で静かに問い続けた本だ。
映画では舞台をフランスに移し、介護施設の責任者マリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ)と、がん闘病中の日本人舞台演出家・森崎真理(岡本多緒)がパリで出会う物語として再構成されている。上映時間は3時間16分。ほとんどが2人の会話で進む。
カンヌでの上映後、スタンディングオベーションは14分間続いた。
濱口竜介という「魔法使い」
ここで一つ、問いを立てたい。
なぜ岡本多緒は、このタイミングでカンヌを獲れたのか。
答えの多くは「濱口竜介」という名前に集約される。
濱口監督は現在、世界で最も注目される日本人映画監督の一人だ。『ドライブ・マイ・カー』でアカデミー賞国際長編映画賞、カンヌ脚本賞。『悪は存在しない』でベネチア審査員大賞。彼が手がける映画は、世界の批評家から一貫して高い評価を受け続けている。
濱口監督の演出の特徴として知られるのが「濱口メソッド」と呼ばれる独自のアプローチだ。俳優に「感情を込めずにただセリフを読む」ことを繰り返させることで、過度な演技を排し、言葉の重みだけが残るような空気を作り出す。
岡本多緒はこのメソッドについて、帰国後の記者会見でこう語っている。「撮影現場で毎日、愛と敬意を実感できた。この道を歩み続ける勇気を与えてくれた」と。
「モデルも俳優も”演じる”のは同じ」
ファッション業界からも多くの祝福の声が上がっているのが、今回の受賞の特徴だ。
岡本多緒は以前、「モデルも俳優も”演じる”のは同じ」と語っている。カメラの前に立ち、自分ではない何かを表現する——その本質は変わらないと。
20年以上モデルとして世界のカメラの前に立ち続けてきた経験が、濱口メソッドの「言葉と沈黙だけで成立する演技」と交わったとき、何かが開いたのかもしれない。
「平凡な日本人俳優」なんかじゃない
冒頭の言葉に戻ろう。
「私のような平凡な日本人俳優が」——岡本多緒はそう言ったが、27年かけて世界のファッション界を渡り歩き、ハリウッドを経験し、濱口竜介に選ばれ、3時間16分の大作でフランス人女優と対等に渡り合い、カンヌを獲った人間のどこが「平凡」なのか。
あの言葉は謙遜ではなく、「自分はいつも通りのことをしただけ」という、静かな自信の表れだったのかもしれない。
映画『急に具合が悪くなる』の日本公開は6月19日。カンヌが認めた3時間16分を、ぜひ劇場で体感してほしい。
参考:時事通信、FASHIONSNAP、シネマトゥデイ、スポニチアネックス(各2026年5月)